人は必ず死ぬ。
これは言われようもない事実だ。
”死に方”さえも自ら創造していけるのならば、人生に対する恐怖もなくなるかもしれない。

あなたはどんな風に死にたい?
大正15年生まれの祖母が2020年に永眠し、最後の息をひきとる瞬間に立ち会わせてくれた最高の体験が、私の人生観に一つの明るい導を残してくれた。
その日、”最幸の死”を目の当たりにした。
祖母の年齢は永遠の24歳。
おばあちゃんは何歳?と聞くと、いつも決まって24歳と答えるハイカラな祖母でした。
根っから明るい祖母は、”陰気だ”と言って、戦時下では履くように言われていたモンペを履かずに、履きたいスカートを履き、無邪気に過ごしていた。
自由気ままだったこともあり、『非国民』なんて呼ばれていたそうで、それにもいとくれず、自分の意志をはっきりさせているような人でした。
生きている頃には、戦争体験談を時折してくれて、川へ飛び込む悲痛な人の様子などを語るときには、目にうっすら涙を浮かべることもあった。
現代の私たちには想像できないような苦しい時代を生きてきた祖母の存在は貴重だ。
どんな話であっても、全てが興味深く、学べることが多かった。
晩年、お酒に酔った祖母が外でわんわん泣いている姿を何度か見たことがある。
目の前で人々が死んでいく様子を見たことがある人間にとって、心に闇を残さないわけがない。
戦争体験者、そして今もなお戦火にいる人たちの苦しみは、本当に計り知れないと思った。
明るく楽しい人懐こい祖母の性格は、周りに人は集め、我が家は祖母の友人たちがよく訪れ、子供時代は家がいつも賑わっていた。
そして一番孫だったこともあり、特に私は祖母から可愛がられ、たくさんの経験をさせてもらいながら、他の孫たちよりもちょっと優遇されたような甘い感覚を養っていたのも事実である。
よく連れて行かれていたスナックでは、お店に来ている常連客に”何か歌ってみてよ”とリクエストされるので、ステージに上がり、大人の歌を歌っては人を楽しませるような、そんなおもてなし心も、祖母からの影響だったと思う。
そんな祖母も80歳を過ぎた頃から認知症が進み出し
人生の最後6年ほどは介護施設で過ごすようになった。
とうに歳を食った私の姿を見て、”今日は学校休みなの?”なんて聞いてくる。
いよいよ、うまく食べ物を飲み込むことも出来なくなり、赤ちゃんのようになった祖母は人の介助がなくては何もできないただ生かされているだけの姿となると、
本当の寿命ではない気がして、自分の意思で生きているように思えない姿に、可哀想だと思うこともあった。
何もわからず、食べたいものも食べれずの姿に、
”ただ生きていてほしい”という、残された私たちのエゴじゃないか??と。
そんな時に、懸命に祖母を支える母の姿が印象的だった。
週に何度も施設に通い、ボケボケの祖母に時間を費やし親子の時間を過ごしている。
母もまた、生い立ちが苦しい大変苦労して育った人だ。
自由気ままに自分を生み、育てることも途中で放棄した母に、今、懸命に介護しているのだ。
本当は欲しかった、埋められなかった愛情を自分が与えることで埋めていくような
償いの愛のような不思議な形が見えた気がしていた。
それに私たち家族は、何度も祖母のもとに集まり、時間を重ねた。
意識がほとんどわからない祖母の横で、私たちはいつも通りワイワイ話をしたり笑い合ったり、昔話を楽しんでいる。
時々、祖母の好きだった歌をみんなで歌ったりもした。
私たちは、祖母という存在を通して集まり、昔懐かしい家族団欒をもう一度楽しむように過ごしていた。
そして最後、みんなに看取られながら祖母が息をひきとる時が来た。
『たくさんの人に愛された、最高の人生だったねぇ。幸せだねぇ。』と家族から声をかけられながら、旅立っていった。
その時、不思議と祖母の顔はとても幸せそうで、
ちょうど窓から光が入っっていたのかは覚えていませんでしたが、
部屋中がパーーーっと光って明るくて、顔が光に包まれたように、そして時間がゆっくりに変わり、
一つの人生の終わりがこんなにも美しいんだ、と私はその光景に佇んだ。
祖母から最後に教えてもらったこと、
”人生の終わりが人生で一番美しい”ということ。
そこには人がいて、行き交う愛がある
許しがある、償いがあり、光がある
人は必ずいつか死を迎える。
人生には罪も愛も苦労も幸せも必ずある
仏教ではそれを手放せというけども、こんなにも味わい尽くした人生の終わりを見せられたら
美しさを見せられたら、
やってみたくなるではないか、思い切り味わい尽くす人生を。

